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浜屋 敏 |
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(はまや さとし) |
株式会社富士通総研 経済研究所 主任研究員。
1963年生まれ。少年時代は金沢、学生時代は京都という「日本的な」街で暮らしたことが唯一の自慢。 |
僕の仕事は、ITによって会社の経営のあり方とか産業のあり方がどのように変わっていくか(あるいは変わっていかないか)ということを調査することだ。エンジニアではないので、特定の技術について常にウオッチしているわけではないけれども、仕事柄新しい技術について鈍感ではいられない。ある新聞社のメールマガジンに、毎週ITに関して興味のある記事について紹介するコラムを書かせてもらっていることもあって、ITに関する新しい情報については、かなり気をつけているつもりだ。
しかし、最近は気持ちがワクワクするような新しい技術がない。はじめてパソコン通信を経験したときは、電子メールの便利さやフォーラムで日本中の人たちと自由に意見交換できることに夢中になった。インターネットが普及し始めた当初は、アメリカの情報がすぐに手に入ること、海外出張などのアポイントも電子メール1本で済むことなどに、いたく感動した。でも、最近は、たとえばケータイで電子メールを読んだり送ったりできるようになっても、ケータイで写真を撮ってすぐに送れるサービスが出ても、ぜんぜん感動しないし、使ってみようとも思わない。
それはどうしてなんだろうか。もちろん、技術自体がたいして面白いものじゃないということもあるかもしれない。いまさら数字だけのキーで文章を入力する方法をマスターしようとは思わないし、デジカメに比べればケータイで撮った写真なんて画素数も少ないし、ぜんぜん鮮明じゃない。
確かにその通りだと思う。でも、もっと違う理由があるような気がする。
そんなことを思っていたとき、正高信男著「0歳児がことばを獲得するとき」という本を読んだ。この本はとても面白いので、これから子どもを生むかもしれない若い女性や、いま子育て中の女性、そしてすべての男性にもぜひ一読することをお勧めするが、この中に、なぜ僕が新しいITにトキメカないのか、ということについてハッと考えさせる一節があった。
ドイツでの研究によると、第二言語の熟達に肝要なのは単に年齢ではなく、一種の「心構え」なのだという。ドイツのことばで、いろいろなことについて相手と意思疎通をはかりたいと思う人は、熟達する。ただ一般に、人間は年齢を重ねるほど何かを伝えたいと言う意欲を失う傾向にあるだけなのだと考えられている。
つまり、「若いときに外国語を覚えれば上達も早いけれど、年を取ってから外国語を勉強してもなかなか話せるようにはならない」というのは、脳が老化したとか年齢によって学習能力が落ちたとか、そういう理由(もあるかもしれないが、それ)よりも「年をとればとるほど他人に何かを伝えたいという気持ちが弱くなる」かららしいのだ。
これって、そのまま僕が新しいITにトキメカなくなっている理由なんじゃないだろうか。僕は、ITについていろいろ調査するという仕事のおかげで、知識としてはいろいろな新しい技術が生まれていることを知っている。でも、僕はそのような新しい技術に、かつてほど心トキメクことが少ない。それは、技術自体が面白くないということではなく、ぼく自身にその技術を使って面白いことをやってやろうという気持ちがなくなってきたからなんじゃないだろうか。
思い起こしてみれば、パソコン通信をはじめて使ったとき、僕は人間関係が会社の中だけで閉じてしまうのがイヤで、いろんな人といろんなことを話したいと思っていた。インターネットが普及し始めた頃には、留学から帰ってきて、自分の会社の仲間とか日本のマスメディアから得た情報だけで仕事をすることに大きな危機感を覚えていたときだった。そんなときだったからこそ、当時の僕にとって、パソコン通信やインターネットはワクワクする技術だった。
情報通信技術というのは、もともと何かを伝えるための技術だ。だから、別に凄いハイテクではなくても、本当に伝えたいことさえあれば、ほんのわずかな技術進歩でも素晴らしいものだと感じることができるんじゃないだろうか。
たとえば、僕は中学から高校にかけて日記を書いていた。その頃、僕は日記帳に誰か(ほとんどの場合、もちろんそれは女の子だった)に宛てた長い手紙を書いた。もちろん、それは実際に相手に送られたわけではない。ただ僕は、自分がどういう人間かということを紙に書くことによって確認し、それを誰かに知ってもらいたかったのだと思う。もし当時いまほどインターネットが普及していれば、僕は簡単に自分が考えたことを情報発信できる日記サイトのヘビー・ユーザーになっていただろう。あるいは、そのときケータイがあれば、ケータイを使ってタッチタイプで文書を打つことができるようになって、毎日のように誰かに(もちろん女の子に)メールしていたかもしれない。
もうすぐ40才を迎えようとしているいまの僕にとっては、ケータイの電子メールや写真サービスは、ぜんぜん心トキメクものではないけれども、たとえば遠距離恋愛しているカップルにとっては、それがない世界は考えられないほど重要な技術かもしれない。あるいは、ケータイの新しいサービスは、それがたとえ他人に伝えたいことが少なくなったオジサンたちにとっては取るに足らない技術であったとしても、(それがよいことかどうかは別として)いつも誰かと「つながっていたい」若い人たちにとってはワクワクするものだろう。
要するに、新しい技術にワクワクして、それを活用できるかどうかというのは、その技術自体が使えるものであるかどうかということではなくて、それを使おうとしている人が、その技術で何かをしたいという気持ちをどれだけ持っているか、ということに大きく左右されるのではないだろうか。
こういう仕事をしているおかげで、ときどき会社の経営者や部長さん方の前でITと経営についてお話させていただくこともある。そういうとき、2・3年前なら真剣に聞いてくれたような話でも、最近はみんなマスメディアなどからたくさん情報を得ているから、よっぽど気の利いた話をしない限り「ふーん、だから?」という顔をされてしまう。そういう顔をされないような話をするのも僕の仕事だし、そういう努力を怠ってはいけないのだけれど、ひとこと言いたいこともある。
それは、ITを活用できるかどうかというのは、もちろんその技術がどれだけ革新的かということも重要だけど、それ以上に、会社の経営者がITを使って何かをしたいという気持ちをどれだけ強く持っているかということで決まる、ということだ。「何かをしたい」というのは、たとえば、とにかくコスト削減をしたいということでもいいし、製品開発のスピードをもっと速くしたいということでもいいし、一人一人のお客様を大切にして顧客満足度を高めたいということでもいいし、社員の働き方を変えてもっと談論風発の職場を作りたいということでもいい。そういう「夢」や「目標」を横に置いて、「ITに何ができるか」という議論をしても、僕が最近のITに心トキメクことが少なくなってきて、ケータイもろくに使えないように、会社でもITをうまく使うことはできないだろう。
「ITで何かが変わる」のではない。「何かを変えるためにITを使う」のだ。
そのように考えれば、きっとまた新しい技術にワクワクする気持ちがもどってくるはずだ。深い自省を込めて、僕はそう思う。(2003年2月)
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